G 高等学校の実践2 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
三次的援助から二次的援助に変わったチーム援助 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
ア | 特別な援助を必要としたB子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
B子は1年生の時より頭痛,腹痛,気分不良等の不定愁訴を訴え,保健室にたびたび来室していた。心療内科を受診していて,2年生になってもその状態は変わらなかった。中学校の時も保健室で休むことが多かったとのことである。B子は保健室に来るとおよそ1時間ぐらい話をし,その後ベットで休養する。時には放課後まで眠ってしまうこともあった。 ところが,2年生の10月頃より教室や廊下で倒れるという症状が出てきた。単位も少なくなってきたこともあり,保護者を呼んで話し合うことになった。その時が第1回目の作戦会議だった。その後本人も落ち着きを取り戻し,ほとんど二次的援助になったころ第2回目のチーム援助作戦会議がもたれた。 |
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イ | 援助の実際 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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ウ | その後のB子の様子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
三次的援助の頃,B子が倒れた時,友人のとりわけC子が必ずB子に寄り添っていた。C子との親密な関係は母親の愛情に飢えていると思われるB子にとって大切なものであると当時思わざるを得なかった。また,この時参加したメンバーはB子が母親との接触を表向きは拒否していたが,本当は望んでいるのではないかと考えた。そして,なるべく母親と会う機会を設けていこうとした。その後,B子とC子は,お互いにもっと距離をとらないと二人ともだめになることを自覚しはじめて距離をおくようになる。この時期の二人の間に走る緊張感は周りで見ていてもとても強いものだった。3年生になり,B子は休みもなく授業に出られるようになり,むしろC子の方が欠席や保健室での休養が多くなった。そして現在,B子とC子はそれぞれの進路に向かって歩みだし,C子もどうやら絶対卒業するという意欲を見せ,落ち着きを取り戻している。B子と母親との関係も,一歩離れた感じで安定している。大学進学という目標に進むことができるようになったB子はもう特別の援助を要する生徒の一人ではなくなった。チーム援助としてそれぞれの立場で周囲の大人たちはB子を見てきたが,B子はその能力の高さから,家族の問題を抱えながらも今回の危機を乗り切った。担任がもっと面談をすれば良かったと振り返るように,B子は個人の問題としては非常に難しいものをもっていたと思う。しかし,第1回の援助チームによる作戦会議では学校の枠組みという現実原則を示しながらも,B子にできるだけ柔軟に対応していこうという点で一致していた。このことで,B子自身の本当の力が発揮でき,それはチーム全員がB子自身の能力を信じていたことだと思う。担任の話によると個別面談の際父親が「やっとこんな話(大学) ができるようになりました」と明るく喜んでいたという。高校は3年間という限定された時間の中で,進路を決め,場合によっては今までやり残してきた親との距離の置き方,自分を守る術等を友人関係の中でやろうとしたりする。友人関係の中で傷つき,また癒される。それでもとりあえず,3年間をやり過ごすことができれば,あるいはもう少し時間が経って自分が成長してから,課題に取り組めればいいと思う。取り組みを始めると3年間では時間が足りない場合が多い。柔軟で、また3年間見守り続けることができるチーム援助が必要である。 三次的援助を要する生徒の場合,プライバシーにかかわることが多い。そこで,保健室で話したことは原則として本人の承諾を得てから,チームメンバーで共通理解を図った。さらに,家庭の問題についても,チームメンバーの共通理解を図る必要がある。 |