新しい学力観に基づく授業の創造

授業・学習過程の構築

茨城県教育研修センター所長 高 久 清 吉

はじめに−「何か」と「いかに」の結びつき

 教育の問題や事柄を考察し,吟味する基本的な筋道の一つとして,私が特に重視しているのは「何か」(what)と「いかに」(How)の二つの問いの結びつきである。「何か」は当該の語や事柄の意味をはっきり押さえてかかろうとするための問い,つまり,意味規定や槻念規定のための問いである。これに対し,「いかに」は実践の方法を吟味しようとする問いである。

 この二つの問いのうち,当然,実践に携わる教師にとっては「いかに」が中心的な問いとなる。それでは,「何か」の問いは教師にとってどんな意義や重みをもつことになるのであろうか。私が強調したいのは,「いかに」の吟味は「何か」の問いの答に支えられ,方向づけられてはじめて首尾一貫性や徹底性をもってくるということである。言い換えれば,「何か」の答があいまいなところでは,「いかに」の吟味もあいまいとなり,一貫性や徹底性は期待できないということである。したがって,本当に「いかに」を中心的問いとして大事とするならば,実践人自らがもっとまともに「何か」の吟味や考察に取り組まなければならないだろう。このような「何か」の吟味と結びついてはじめて「いかに」の吟味は生きてくるのである。

 このことは,当面の問題である「新しい学力観」についてもそのまま当てはまる。「新しい学力観」とは「何か」の吟味に基づいて,これを「いかに」して実現するかの方法が検討されなければならない。したがって,本稿では,大きく見て,まず「新しい学力観」とは何か,次に「新しい学力観」に基づく実践,特に授業実践をいかに進めるかのこつの問題が取り上げられる。

 

 1 「新しい学力観」の何が新しいのか

 「新しい学力観」に基づく教育実践をどのように進めるか,これは現在のわが国の教育界において大きな関心の的となっている。ところで,「新しい学力観」の何が新しいというのであろうか。新しい学力観に基づく学力像そのものを端的に示したものとして,「とりわけ自ら学ぶ意欲の育成や思考力,判断力,表現力などの能力の育成を重視すること」との定義が挙げられている。これは指導要録の改善に関する調査研究協力者会議の審議のまとめに出てくる言葉であるが,同様の言葉は平成元年,新学習指導要領の告示に当たっても述べられている。この学力像は学ぶ「意欲」や「能力」などの育成を心棒として成り立っている。

 このような学力観や学力像に接すると,私のように,長い間,ドイツの教育学や教授学にかかわってきている者は,すぐに「形式陶冶」の立場に立つ学力観が念頭に浮かんでくるのである。それと全く同様の学力像と言えるからである。

ドイツ教授学の長い歴史を貫いている代表的な根本問題は,「実質陶冶」と「形式陶冶」と呼ばれる二つの学習観または学力観の対立と調和の問題である。内容の習得を何よりも大切とし,これを学習や学力のかなめとするのが「実質陶冶」,これに対し,学ぶ態度や能力や方法の習得を学習及び学力のかなめと見なし,内容の習得はそのための手段に過ぎないとするのが「形式陶冶」論の立場である。この「形式陶冶」は,特に学ぶ態度や能力の育成を重点とする「能力陶冶」と,学ぶ方法の習得を重点とする「方法陶冶」とに分けられる。

 このような,いわばドイツ教授学の常識とでもいうべきものが念頭にあるものだから,学ぶ意欲や能力や方法などの育成を重視する「新しい学力観」は,典型的な形で「形式陶冶」の立場に立った学力観を示していると私は受け取っているのである。そのように受け止めると,この「新しい学力観」は「新しい」どころか,まさに古典型な学力観ということになる。したがって,「新しい学力観」については,本当に「新しい」ものは何もないのか,あるとすれば,それは何なのか,改めて考える必要に当面することになる。

 

 2 「新しい学力観」を理解する筋道−層的なとらえ方

 このような問題に当面し,ここで改めて注目したいのは,「新しい学力観」が語られる時に必ず言及されるもう一つの定義である。それは「社会の変化に主体的に対応できる能力の育成」ということである。これは昭和62年の教育課程審議会答申で大きく取り上げられて以来,新しい学習指導要領が目指す学力観のかなめと見なされている。

 このように,「新しい学力観」として,「自ら学ぶ意欲」や「社会の変化に主体的に対応できる能力」,また,はじめに紹介したような「思考力,判断力、表現力などの能力」,さらには,新学習指導要領の基本的なねらいとして掲げられる「基礎的・基本的な内容の重視」や「個性を生かす教育の充実」といったことも加わったりするものだから,これを受け止める側からすると,いろいろな項目が雑然と列挙されており,筋道の通ったすっきりとした理解が生まれにくいように思われるのである。現在,一般の教師たちにとって,「新しい学力観」が一応はわかりきったことのように受け止められながら,しかし,実は,案外にすっきりしないというのは,この理解の筋道がはっきりしていないためではないかと私は見ている。

 このような理解の筋道をはっきりさせるための手がかりとして改めて注目しているのは,前掲の教育課程審議会答申中(Tー1一(2))の次のような文章である。

「これからの学校教育は,生涯学習の基礎を培うものとして,自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力の育成を重視する必要がある。そのためには,児童生徒の発達段階に応じて必要な知識や技能を身に付けさせることを通して,思考力、判断力、表現力などの能力の育成を学校教育の基本に据えなければならない。」(文中の下線は筆者による。)

 この文章中,下線を付した「そのためには」の語に注意する必要がある。この語は,その前に在る「自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力」と,その後にくる「思考力,判断力,表現力などの能力」 −共に「新しい学力観」を織り成す代表的なこの二様の能力が,同じ次元または同じ層に位置するものではなく,目的と手段との関係,または上層目的(目的)と,これに至る前の下層目的(目標)との関係にあることを示唆している。

 このような答申中の文章を手がかりとして,私は「新しい学力観」をもっとすっきりと理解するための次のような筋道を考えている。 −それは「新しい学力観」において掲げられる諸能力を同じ層または次元に並立するのではなく,違った層(次元)に分けて位置づけ,そして関係づける層的なとらえ方をする筋道である。この違った層(次元)として次の二つが分けられる。一つは「目的としての学力」の層であり,もう一つは「目標(下層目的)としての学力」の層である。前者として「自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力」,後者として「思考力、判断力,表現力などの能力」が挙げられる。「学習方法」の習得もこの下層に属すると見なされる。

 もちろん,この二つの層に分けられた二様の能力は,目的と手段または形式と内容という関係で結びつき,一元化されることになる。そうすると,「思考力、判断力、表現力などの能力」は単に能力一般というのではなく,「社会の変化に主体的に対応できる能力」としての方向性や中身をもった具体的な能力として理解されることになる。

 このように見てくると,単に「思考力,判断力、表現力」などというよりも,「自ら学ぶ意欲と主体的に考え,判断し,行動できる能力」といった表現(学校週五日制に関する調査研究協力者会議の報告書)の方が「新しい学力覿」の定義として,より適切と言えるだろう。

 さて,これまで述べてきたような「新しい学力観」についての理解の仕方は,また,「新しい学力観」の何が新しいのかという問題に対する答を示してくれる。今,学ぶ「能力」などの中身や方向として,「社会の変化に主体的に対応できる能力」と言った。「能力」の育成や「学ぶ方法」の習得などを学力のかなめに据えるのは形式陶冶論的学力観であって,これは昔から変わらない古典的な学力観である。しかし,その「能力」などの中身や方向を「社会の変化に主体的に対応できる能力」として理解するのは,現代の社会や人間や教育の状況に応じた新しいとらえ方である。つまり,革は新しくはないが,その中に新しい酒を盛ることによって,革もまた新しく生き返り,生き続けることになる。

 

 3 学ぶ意欲や能力を育てる授業方法の根本

 これまで,「新しい学力観」とは「何か」の吟味を行ってきた。この結果を踏まえて,次に,「新しい学力覿」を「いかに」して実現するかの方法の吟味へと進むことにする。「何か」の吟味を通し,「新しい学力観」が目指す学力をより適切に表現したものとして,「自ら学ぶ意欲と主体的に考え,判断し,行動できる能力」という定義に注目した。そうすると,「何か」の答に基づく「いかに」の吟味は,当然,「自ら学ぶ意欲と主体的に考え,判断し,行動できる能力」を育成する方法の吟味を中心として進められることになる。

 社会の変化に主体的に対応できる能力としての考え,判断し,行動できる能力や自ら学ぶ意欲が教科の授業だけによって育成されるものでないことは明らかである。このような能力はまさに学校教育の全領域における指導を通して育成されるべきものである。したがって,この育成のための方法吟味が学校教育の全領域にわたって行われるべきことは当然である。しかし,この全領域の中で,特に,教科領域における授業が「新しい学力観」に基づく教育実践の中核となることも事実である。したがって,本稿では,主に教科の授業を念頭において,新しい学力を育てる方法を検討することにしたい。

 この方法の吟味に当たっても,前の「何か」の吟味と同様に,「形式陶冶」論を参照することにする。前述のように,「形式陶冶」論と現在のわが国の「新しい学力観」においては,共に学習の皆度や能力や方法などの習得や育成が学習及び学力のかなめと見なされている。したがって,当然,この態度や能力や方法などを育てようとする方法論も,基本的には,両者にとって同様となるはずである。しかも,形式陶冶論においては,その長い理論吟味や実践の歩みの中で,方法の根本となるものが何であるか,その結論は示されている。この方法の根本は,現在の「新しい学力観」に基づく学力を育てる方法の根本とも見なされるわけである。

 それでは形式陶冶のための方法の根本とは何か。この方法の大前提となっているのは,内容の習得と切り離し,これとは無関係に学習の能力や方法そのものが形式的に教え込まれたり,訓練されたりするのは間違いだということである。言い換えれば,能力や方法の習得は内容の習得に即し,これと結びついて同時的に行われるべさであるというのである。

 しかし,そうは言っても,これは内容の習得が必然的に能力や方法の習得になるというのではない。どんな形でであれ,内容を学べば,それが必ず能力や方法などの習得になるというわけではない。それでは,この両習得が結びつき,表裏一体のようにして同時的に行われるのはどのようにして可能となるのであろうか。

 ここで,授業・学習の「過程」という問題が大きくクローズアップされることになるのである。どのような過程をたどって授業・学習が進められるのか,この過程の在り方によって,上の両習得は同時的に行われたり,また,行われなかったりする。したがって,内容の習得と能力,方法などの習得の両方を同時的に可能とするような学習の過程を組み立てること,ここにこそ形式陶冶の方法の根本があるということになる。もちろん,新しい学力観に基づく学力を育てる方法の根本もここにあると言える。

 

 4 授業・学習の過程の構築−構造化

 それでは,授業・学習の過程をどのように構成したら,最も効果的に内容を習得することが,同時に,最も効果的に学習の能力や方法などを習得することになるのであろうか。この過程構成の原則は,児童生徒が主体的,積極的な自己活動により,その授業・学習のねらいに当たる重要内容を「あたかもはじめて見つけだしたかのようにして」発見的に学び取ることを目指し,そのために,児童生徒の活発な自己活動を触発し,支える適切な内容や活動を選択し,配列することである。このような過程の構築を私は「構造的編成」または「構造化」と呼んでいる。

 まず,具体的な事例に即して,授業・学習の構造的な過程構成について説明していくことにする。かつて私は茨城県の谷田部中学校(現在のつくば市)と「授業・学習の構造化」について,四年間,共同研究を続けたことがある。毎年開かれる公開研究発表会の時には,授業者の一人一人と授業・学習の流し方,組み立て方について一緒に検討を重ねた。

 その中で,今でもよく覚えているものの一つに,三年の国語「短歌を味わう」という単元の授業がある。教科書には何頁かにわたってたくさんの短歌が並んでおり,最後の一頁には,短歌をより深く味わうためにはどこに着眼すればよいのか,いわば「短歌鑑賞のキーポイント」とでもいうべきものがきちんとまとめられていた。

 この授業者と私とのあいだですぐに一致した結論は,教科書の内容の順序で授業・学習を流していくことを止め,この展開の過程を組み替えるということである。まず,適切な短歌の一つないし二つを取り上げ,これをじっくりと掘り下げることを通して,「なるほど,短歌を味わうためにはこういう所に目を着ければよいのだなあ」と,生徒自身が「あたかもはじめて気がついたかのようにして」短歌鑑賞のキーポイントを学び取っていく。その後で今度はいくつもの短歌に当たって,このキーポイントを確認し,その定着を図っていく。−こういう順序または流れで授業を進めようとの結論になった。

 その時・私は授業者にこう言った。「手がかりとする一,二の短歌としてどんなものを選ぶか,もちろん,それは私ではなく,あなたの領分です。あの生徒たちにとって,どんな短歌が鑑賞のキーポイントを発見的に学び取るための適切な手がかりになるか,それは生徒たちを一番よく知っているあなたが決めなければなりません。」

 ただし,その際に,この選択や決定について,私は次のような形式的な条件だけを指摘した。それは「単純・簡潔で含蓄に富む」ということである。手がかりであるのだから,難解複雑では困るのである。しかし,ただ単純・簡潔でありさえすればよいというわけでもない。ねらいとする一番重要な中身を「あたかもはじめて気がついたかのようにして」学び取るためのステップとしての適切さを備えていなければならない。それを「含蓄に富む」という言葉で表現したのである。このような条件を満たすものとして,この授業者は,与謝野晶子の「金色の小さき鳥の形して いちょう散るなり 夕日の丘に」という短歌を手がかりの中心に選んだ。

 さて,今,例として挙げた単元「短歌を味わう」の授業・学習の流し方についてであるが,私たちは,まず,教科書の内容の順序で授業を進めていくことを止めにした。これはこの流し方を別に組み立てることになるわけである。その組み替えに当たって,私たちは一連の内容のうち,教科書の最後の一頁の所にのっている短歌鑑賞のための押さえどころ,つまり,キーポイントが内容の核またはかなめであることを確認した。

 かなめに当たる最も重要な内容の習得に当たっては,これを教え込むのではなく,活発な自己活動を通して,生徒自身が「あたかもはじめて見つけだしたかのようにして」学び取るのが一番望ましいと考えた。そのためには手がかりが必要である。積極的な自己活動による発見的な習得を支え,方向づけるような適切な内容や活動の選択と配列が必要である。このような手がかりとして,最初に,生徒たちにとってわかりやすく興味があり,しかも,かなめまたは核に当たる一番重要な内容を発見的に学び取ることへの効果的な橋渡しとして,与謝野晶子の「金色の‥‥‥」の短歌を特にピックアップしたのである。このようにして短歌鑑賞のキーポイントを理解した後,次は,このキーポイントを踏まえていくつかの短歌をより深<味わうと同時に,このキーポイントの理解を一層確実にしようとした。

 以上のような学習の内容と過程の組み替え,これが私のいう「授業・学習の構造化」である。

 このような構造化は,大きく見て,授業・学習の内容を二つの要素−「中心要素」と「補助要素」とに分け,中心要素の効果的な習得(自己活動を通しての発見的,創造的習得)を目指して適切な補助要素を選び,この両要素を配列し,組み立てていくということである。前の例で言えば,短歌鑑賞のキーポイントを示した内容,前に「かなめ」とか「核」と言ったこの内容が中心要素,そして,手がかりとして選んだ与謝野晶子のあの短歌,さらにその他取り上げられる諸短歌が補助要素ということになる。

 これまで述べたような意味での「構造化」を私はまた,よく「具体と抽象との効果的なからみ合い」と言い換えたりしている。中心要素と見な草れる内容−教材の核やかなめとなる内容は,多くの場合,基本的な槻念,命題,原理,原則,法則,公式と言ったたぐいの内容であるから,多かれ少なかれ,ある種の抽象性をもっている。これに対し,手がかりとなる補助要素としての内容や活動は,児童生徒にとってわかりやすく興味のある具体的,具象的なものであるのが通例である。したがって,中心と補助の二つの要素から授業・学習の内容や過程を組み立てていこうとする「構造化」は,別な面から見れば,「具体と抽象とのからみ合い」ということになるわけである。最後にまとめると,最も効果的な内容習得と学習の能力や方法などの習得とを同時的に可能とするような授業・学習の過程の組み立て−ここに新しい学力観に基づく授業方法の根本がある−は次のような手順によって進められることになる。

 何よりもまず,教材の中心要素である,ねらいとしての重要な内容が何であるかを確認すること。次に,教材の補助要素である,手がかりとしての効果的な内容や活動を選択すること。そして,第三に,学習者である児童生徒が活発な自己活動を通して,発見的,創造的に内容習得を行うことを眼目に,中心と補助の両要素を組み立てて構造的に編成することである。


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